(社)宮崎県歯科技工士会の歴史
 

          -日本歯科技工士会会誌 黎明期からの40年 より- 
 

草創期(昭和31~昭和40年)
 社団法人日本歯科技工士会の発足に呼応して,宮崎県歯科技工士会は昭和31年8月12日に発会式を挙行した。初代会長には今井正氏が満場一致で推挙され,歯科技工法制定に伴う特例歯科技工士国家試験の準備,県内各地に散在する同志の掌握,会の規約を作るための資料探しにと,活気ある夜明けを迎えた。
 今井会長を中心とする役員諸氏の努力により,3回(昭和31年・32年・33年)にわたって実施された特例歯科技工士因家試験で,138名の技工士が本県に誕生した。 しかし,そうした努力も空しく,免許取得後に入会した人は82名。しかもその中から一人,又一人と退会者が続出し,37年には会員数38名という,数からいえば誠に心細い会となってしまった。


 激動期(昭和41~昭和48年)
 昭和41年に宮崎県歯科医師会による歯科助手学校が開設。45年には第6回九州技工士学会が本県で開催されたが,その間に会長は41年に第2代村山福男氏,43年に第3代小城重昌氏,46年に第4代として村山福男氏が再任され,続いて47年には第5代会長弓削清美氏が就任した。
 この年,愛知県では技工助手養成問題が表面化。全国的規模で反対運動が展開されるという時代背景のもとで,宮崎県歯科医師会は歯科助手学校を発展的に解消し,歯科技工士学校に昇格させる方針を打ち出した。翌48年1月,本会と歯科医師会との間に正式に協約書の調印が取り交わされ,4月9日に第1期生の入学式が挙行された。
 昭和41~48年の8年問は歯科助手学校問題を初め,会費流用事件等が勃発し,会長が4人も入れ代わるなど,本会にとっては試練の時代であり,まさに激動の時代であった。
歯科技工法改正に伴う講習会(昭和58年2月6日)


 安定期(昭和49~昭和54年)
 昭和49年2期目を迎えた弓削執行部は,以後54年までの在任期問中,多方面にわたって着実な成果を納め全盛期を迎えた。
49年に第2回目の各支部対抗のソフトボール大会を開催し年間行事の一つとして定着。
 50年に体育部を新設。それまでの同好会的草野球チームが正式な県野球部として発足した。
51年には会員発表を中心とした第3回宮崎県歯科技工学会を開催し,終身研鑚の意気を会員に示した。また,草野勝美氏が広報理事に就任。会誌「宮崎歯技」の充実を図り,会員同士の横のつながりと,会員と執行部をつなぐパイプ役として大きな役割を果たしてきた。
53年7月,九地協親善野球大会が本県で開催され,9月には桑田正博先生を講師に迎えて,第4回宮崎県歯科技工学会を開催した。
 昭和54年,組織拡充に全力をあげてきた執行部の努カが実り,会員数は100名の壁を突破して122名に達した。この会員増に伴い,日南支部が本県4番目のブロックとして結成された。
この昭和49年~54年のまでの6年間は内外との協調と連帯に力を傾注し,深く静かに安定した進歩を遂げた時代であった。


成長期(昭和55~昭和63年)
 昭和55年,第6代会長に草野勝美氏が就任。日技の基本方針に準じ,本会運営の指針として社会的地位の向上・生活の向上安定・組織の拡充強化という3つの柱を打出し,また6ヶ条からなる「執行部心得」を制定し組織の団結に心を配った。
 折しも,日本歯科技工士会は25周年記念事業のつとして,3ヶ年会員倍増計画を発表した。これに応えるべく“会員倍増は宮崎から"を合言葉に積極果敢に働きかけて,新入会員73名を迎え会員数は199名となった。55年度の目標達成率ならびに組織率共に全国のトップクラスという輝かしい金字塔を打ち立て,一躍,宮崎県歯科技工十会の名を全国に轟かせた。
 一方この年の10月より,本会の事務所を保持するために会館建設積立預金を開始。本会が将来,一大躍進を成すであろうという期待感を全会員に抱かせた。
 56年11月11日,この日は私達会員にとって忘れ得ぬ日となった。本県会員が待ちに待ち,会員すべての願いであった社団法人の設立が認可されたのである。
57年3月14日,創立25周年並びに社団法人設立記念大会は,厚生大臣免許の実現(歯科技工法の一部改正)した喜びも重ね合わせて,会場は興奮のるつぼと化した。
 しかし,この年の4月,全国的に営業所を持つ和田精密歯研株式会社が,突如として宮崎県に進出。本会は会員の生活擁護の立場から,この問題に積極的に取り組んだ。会社側と数回に及ぶ交渉の結果,本県の技工料金を遵守し共存共栄を図るということで意見の一致をみた。
 58年2月6日,宮崎県歯科医師会館において,歯科技工法改正に伴う講習会を開催。草野会長はその手腕を如何なく発揮。受講者は会員数を蓬かに上回る304名に達し,非会員を含めた受講率は 93%に達した。4月24日の定期総会では,5番目のブロックとして小林支部の結成を承認した。
 59年には宮崎支部の二分割を承認し,宮崎北支部・宮崎南支部を設定。県内6支部247名の組織となった。
 60年4月29日,本会の創設に力を尽くし,役員として多大の功績を示した弓削清美前会長が急逝。同年5月12日宮崎市青山会館にて社団法入宮崎県歯科技工士会葬を執行。日技酒井会長・九地協甫喜本会長・宮崎県歯科医師会野村靖夫会長らをはじめ多数の会葬者を得て,生前の功労に報いる葬儀を執行した。
 61年4月22日,宮崎県歯科技工士政治連盟を結成。従来の学術団体としての顔に,政治団体としての使命をも持っこととなった。同年6月1日,桑田正博先生を講師に迎え,第11回歯科技工学術大会を県歯科医師会館において開催。受講者は225名を数えた。快晴下の元,この年の4月から発足した日技生涯研修制度自由研修過程として, 企国に先駆けての開講であった。
 9月1日,リバーサイドマンション(宮崎市祗園町)の一室を契約。歯科技工研修センターと命名し事務所兼研修室として使用することになった。
11月2日,サンホテルフェニックスで九地協創立30周年記念式典・祝賀会,翌3日には第13回九州地区歯科技工学術大会を本会の担当で開催した。
 62年2月8日,県歯会館において生涯研修(基本)を開講。受講者総数は160名。会員数は,280名を越えた。
 63年は技工料問題に明け技工料問題で暮れた一年間であった。懸案事項となっていた委託技工料問題は,厚生大臣告示(官報号外第65号)が出ることで一応の決着をみた。
 日技は6月24日,歯科技工料実務担当者講習会を自民党会館で開催。本会はその意を受け,3回にわたって技工料に関する伝達講習会を実施。
 県歯とも精力的な交渉を展開。公式会談は4回であったが,電話等による非公式な折衝を加えると20数回にも及んだ。
 こうした渉外活動の結果,12月7日,県歯・県技間で合意に達したのである。
安定期から成長期へ。草野会長というかってない卓越した指導者を得た本会は,会員数122名から倍増を上回る280名へ。
法人化の実現・政連の結成・研修センターの設置等々に加えて,完璧に諸行事を執行し,技工料問題を初めとする渉外活動にも多人の成果を納め,この昭和55年~63年の9年間に飛躍的な成長を遂げた。


  前進期(平成元年~)
 平成元年2月1日,大臣告示に伴う新技工料金の実施。8月5日第1回生活問題対策委員会を開催第2回から技工料金実施状況監査に入り平成3年8月には全技工所の監査を終了した。
 2年6月30日,「歯科技工白書」を発刊。会員のみならず日技役員・各県技会長・県内全歯科医院に発送。多人な反響があった。
 3年10月28日,会誌「宮崎歯技」61号発刊。白書と同様全歯科医院に発送。11月19日,医務薬務課・保険課・労働基準監督署に持参。
 4年4月,本県7番目のブロックとして日向支部が誕生。
第16回参議院議員選挙(7月26日)では,全国区から出馬した大島慶久候補を積極的に支援。総数14,564票という県技史上かってない後援会名簿を獲得した。12月28日,懸案の技工料問題・勤務者対策に関する合意文書交換がなり,26日付けで県歯県技の「合意書」に調印した。
5年2月14日,県歯会館で「生活改善のための伝達講習会」を開催。4月1日より告示にも基づく新技丁料金の実施に入った。
6年の年頭から県内の営業ラボから仕事を奪われたという技工所からの苦情が殺到した。
この状況を打開するために,第59回・60回・61回日技代議員会で日技の見解を質すと同時に,4月1日には日技より宿南・中西両常務の来宮を仰ぎ,日技主催の技対セミナーを開催。10月1日には,日技佐野会長臨席の下,「生活を守る決起集会」を開催して打開策を練った。
しかし,これを阻止する具体策はなく,協定料金遵守の方針を続ければ,誠実に対応してきた会員が仕事を奪われるとの判断の下,7年4月16日開催の定期総会で県歯科技間の協定料金破棄の決議がなされた。
7年9月1日,リバーサイドマンション202号室購入について契約書に調印。同月11日支払事務が終了した。会員の粘り強い協力により,ささやかながらマンションの一室を購入。本会も名実共に一国一城の主となり,活動の根拠地を確保できるに至った。
会館購入直後の10月3日,草野会長が突然体調を壊され緊急人院。
平成6年9月未現在で309名を誇っていた会員数も経済苦か本会への不信感からか定かではないが,平成8年末現在で282名に減少した。
いっか来た道を繰り返す感は如何ともしがたいが,激動するであろう90年代後半,さらに21世紀を真の意昧での前進期とするのは,誰でもない私達自身である。自らの手で勝ち取っていかなければならないものである。それは歴史が示す通り,一朝一タで成るものではない。
私達の先輩は,逢か彼方の一条の光を目指し,信じて会を守り通してこられた。時代が変わり人が変わっても,歯科技工という職業がこの世に存在する限り,技工士会もまた連綿として続くことであろう。
我らはそこに続く後輩達に,経済基盤の確立を図り,さらに盤石なる地位と組織を作り上て託したい。その達成勝利の日まで……。


( 社団法人宮崎県歯科技工士会 宮永会長 記 )


宮崎県歯科技工士会

 

10年間の歩み

 

2006年(H18)は、定期総会(4/23)、生涯研修基本(7/16、受講者53名)、生涯研修自由(10/29、受講者33名)をそれぞれに開催した。又、県保健・医療・福祉関連団体協議会役員会(7/18)、理事会は年8回開催した。会員数167名(平均年齢=49.55歳)

 

2007年(H19)、上半期は連盟活動(中西しげあき選挙対策)で本来の事業遂行に多少の影響があったが、下半期は学術・福利厚生事業や公益法人改革への対応等本来の事業を推進した。総会は4/30に開催した。会員数156名(平均年齢=50.79歳)

 

2008年(H20)、年2回の生涯研修(自由5/18、基本11/9)

の実施、歯科技工物の海外委託反対の署名活動(58名分、784名の署名)等の事業を推進し、歯科技工の海外委託問題訴訟を支援する会宛に送付した。会員数146名(平均年齢=51.82歳)

 

2009年(H21)、定期総会(4/25)、生研自由は9月6日に開催したが、基本は日本歯科技工学会・第31回学術大会(11/22~23)を充当した。歯科技工指示書に関する件で県歯・県技意見交換会(12/17)が行われた。会員数142名(平均年齢=52.72歳)

 

2010年(H22)、一般社団法人取得のための準備に追われながら、歯科技工物の『地産地消』推進ポスター及び海外委託問題特集号を県内全歯科医院に送付。定期総会(5/8)、生研基本(7/18)、生研自由(10/24)。会員数141名(平均年齢=53.33歳)

 

2011年(H23)、本会独自の死亡共済制度(メットライフ生命)発足と支部を統廃合。生研自由は「感染予防歯科技工士講習会」、生研基本は歯科技工学会九州・沖縄支部第7回学術大会(8/28)を充当した。会員数136名(平均年齢=54.48歳)

  

2012年(H24)、特例民法法人概況調査、新法人移行のための電子申請、一般社団法人定款案の作成、その他公益法人制度改革に関する対応等に追われた1年であった。定期総会(5/26)、生研自由・臨時総会(9/23)。会員数129(平均年齢=55.65歳)

 

2013年(H25)、3月19日に一般社団法人への移行認可書を受領、4月1日に法務局へ登記。県歯・県技懇談会(5/1)、生研自由(6/14)・基本は日本歯科技工学会九州・沖縄支部第9回学術大会(12/8)を充当。会員数129(平均年齢=56.38歳)

 

2014年(H26)、歯科技工所一覧を宮崎市(1/15),

宮崎県(1/17)に受領し、県歯・県技懇談会(4/24)でその対応策について協議。生研自由(11/1)、基本は日本歯科技工学会九州・沖縄支部学術大会(8/24)を充当。会員数131名(平均年齢=55.15歳)

 

2015年(H27)は、歯科技工所届け出等整備推進事業を推進。日技創立60周年記念大会(10/17)で宮永・三城氏が厚生労働大臣表彰。生研自由(11/15)、基本は日本歯科技工学会第37回学術大会(10/17~18)を充当。会員数126名(平均年齢=56.35歳)

 

 

 

 

略歴表 ( 2006~2015 )

2006年 第32回九地協親善野球熊本大会(11/3)

2007年 生涯研修自由(11/4、受講者数41名)

2008年 県医療薬務課の公益法人立入検査(9/2)

2009年 公益法人制度に関する説明会(9/29、1/14)

2010年 歯科三師(士)会による意見交換会(2/18)

2011年 感染症予防歯科技工士講習会(11/2)

2012年 県歯常務理事会(県歯・県技懇談会、4/5)

2013年 一般社団法人宮崎県歯科技工士会へ移行

2014年 第2回社員総会(5/25)新役員を選出

2015年 杉岡日技会長を招き生涯研修自由(11/15)